• 用語

かつては「島原の乱」といわれていましたが、なぜ「島原・天草一揆」というのですか。

 江戸時代初期、肥前国島原と肥後国天草の領民が帯同して起こした、大規模な百姓一揆を示す用語として「島原の乱」が一般的に用いられてきました。しかし「島原の乱」とすると、島原でだけ一揆が起こったような印象を与えます。確かに、領民が最後にたてこもった場所は、島原半島の原城でした。しかし、実際に一揆が起こったのは、肥前国島原と肥後国天草の各々の場所でした。このため、島原だけでなく天草を加えて、「島原・天草」と表記するようにしました。

 また、この一揆は、従来のようなキリスト教徒による反乱という見方だけでとらえるのではなく、領主の苛酷な圧政に対する大規模な百姓一揆というとらえ方もされるようになってきました。これまでキリスト教徒による反乱という点が強調されてきたのには、幕府がこの後いわゆる「鎖国」政策を強化し、人々に徹底して禁教政策を推し進めるよい口実にした、という背景がありました。しかし、当時の宣教師が、領主の圧政とキリスト教に対する苛酷な迫害に対する一揆と書き記しているように、近年では、百姓一揆としての性格も重視されるようになってきました。そこで「乱」ではなく「一揆」というように、その表現も改めています。