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江戸時代において、蝦夷地は日本の領土であったのですか。
江戸時代初期には、明治以降の近代国家のような明確な国境線があったわけではありません。歴史的に、中国、朝鮮、琉球、蝦夷地はほかの国という認識があり、「四つの口」として外交・貿易統制を行いました。ただし、蝦夷地は、ほかの3つのような政府が存在しませんでした。そのため、松前藩のアイヌの人々への支配の強化という形で、幕府による蝦夷地の支配体制が確立していきます。
18世紀後半になると、ロシアが毛皮貿易の拠点づくりのために積極的にオホーツク海沿岸に進出し、日本に通商を要求してきます。この際、ロシアも幕府も「蝦夷地」は日本のものとして扱っています。しかし、その境界はどこにあるのかは未確定でした。同じころ仙台藩士の林子平がまとめた『三国通覧図説』の地図でも、蝦夷地は日本と意識されていますが、その形は不正確です。その後、幕府は蝦夷地防備のため、伊能忠敬の測量隊の派遣や、間宮林蔵などによる蝦夷地探索を展開していきます。この中で幕府は、ロシアに先んじて国後島や択捉島を発見・調査し、遅くとも19世紀はじめには実効的支配を確立しました。ロシア側も自国領土の南限をウルップ島と認識しており、幕府とロシアによって1855年に結ばれた日露通好(和親)条約により、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。一方で、樺太は両国の雑居地とされました。近代国家の「日本」がロシアと正式な国境を画定するのは、1875年の樺太・千島交換条約によってです。これによりウルップ島以北の千島列島を日本領とするかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。こうして樺太と北海道の間に国境が画定しました。