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甲斐善光寺の坐像を源頼朝像と紹介しているのは、どのような根拠にもとづいているのですか。
源頼朝像の肖像というと、かつては京都府の神護寺にある国宝「伝源頼朝像」が教科書にも大きく取り扱われる定番でした。その根拠としては『神護寺略記』に、似絵の名手であった藤原隆信による後白河法皇像とともに、源頼朝像、平重盛像、平業房像、藤原光能像が収められたと記録されていることが挙げられます。このうち法皇像は室町時代の写しのみとなり、業房像は現存していません。そして、神護寺に現存する似絵3点が伝統的に「源頼朝」「平重盛」「藤原光能」の肖像と伝えられてきました。
しかし、1995年に美術史家の米倉迪夫氏によって、この「伝源頼朝像」は足利尊氏の弟「足利直義」の肖像であるという説が提起されました。米倉氏の論点は、①『神護寺略記』と「伝源頼朝像」を結びつけるのは根拠に乏しい。②3像には作風の微妙な違いが認められ、そこから「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」は最初のセットで、ついで「伝藤原光能像」が加わったと考えられる。③足利直義願文によると1354年に神護寺に尊氏と直義兄弟の像が奉納され、この際に似絵2像が奉納されたと考えられる。④「伝平重盛像」は、宮内庁所蔵の「天子摂政御影」にみえる平重盛の肖像とは顔貌が異なる一方で、「伝平重盛像」が「足利尊氏像」に近似している。⑤「伝藤原光能像」は、等持院像の「足利義詮像」に近似している。⑥「伝源頼朝像」と「伝平重盛像」の太刀の柄に桐紋の痕跡があるが、これは足利氏の家紋の一つである。⑦様式的にも、この時期の似絵「夢窓疎石像」との造形的共通性が指摘できる、というものです。これらに加え、絵画史において、武士の肖像画が鎌倉末期から隆盛をむかえるにもかかわらず、それよりも前の鎌倉初期にいきなりその傑作が登場する矛盾が指摘できます。また、科学的分析でも、この3像に使用されている絵絹の素材が、南北朝時代のものであるという指摘もなされるようになりました。これらの状況から、神護寺の「伝源頼朝像」は、足利直義とする説が有力になっています。
では、源頼朝の顔貌を示す像はほかにないのかという視点で史料を検討した結果、甲斐善光寺に伝わる「源頼朝像」が、唯一当時の源頼朝の顔貌を示す坐像であることが分かってきました。その証拠は、この像の胎内に記された銘文です。銘文には、この像が北条政子の命により源頼朝の死後まもなく造られたと解読できました。また、現在の胴部分は火災によって本来の胴の部分が焼失後に修繕されたものということが分かりました。しかし、これにより顔の部分は鎌倉初期の作成と特定することができました。また、同じく甲斐善光寺には源実朝坐像が所蔵されていますが、この顔貌は、京都国立博物館所蔵の「公家列影図」の実朝の顔貌と近似しています。以上のことから、弊社では甲斐善光寺の坐像を、源頼朝として紹介しています。
参考文献:黒田日出男 『源頼朝の神像』(角川選書490)角川学芸出版 2011年
黒田日出男 『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書509)角川学芸出版 2012年