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「聖徳太子」は、なぜ「聖徳太子(厩戸王)」と表記されるようになったのですか。

 かつての教科書の「聖徳太子」の記述は、推古天皇の摂政として、十七条の憲法や冠位十二階の制定、仏教の交流や遣隋使の派遣など、重要な政策を一手に担う革新的な政治を行った人物として記述されていました。この「聖徳太子」の事績は、奈良時代前半に成立した『日本書紀』に依拠しており、教科書では明治期に近代国家の体制や歩みと重ねて顕彰して記述されるようになりました。

 しかし、「聖徳太子」の記述の根拠となる史料の時期を分析すると、『日本書紀』は奈良時代初期、法隆寺関連の史料は、確実に年代が確認できるのが奈良時代中期になります。つまり、聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。また、「聖徳」とは厩戸王の没後におくられた名であること、また「太子」は「皇太子」の意味ですが、厩戸王存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低いことも、現在の研究では分かっています。このような状況から、「聖徳太子」の存在自体を否定する説もでています。しかし、その記述内容を分析し、ほかの史料と合わせてみると、「聖徳太子」のモデルとなった「厩戸王」といわれる実在の人物がいたこと、その人物が、奈良県斑鳩の地に斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)を営むほどの有力な王族であったこと、中国の『隋書』などからも倭国に中国の太子に対応するような有力な王子がいるとみていたことなどは確実にいうことができます。そのため、現在では、推古朝において、蘇我馬子とともに厩戸王が政治を行ったというのが有力となっており、弊社でもその考えのもと、「聖徳太子(厩戸王)」と表記しています。

 同様に、宮内庁侍従職が保有する「唐本御影」は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画で、これまで高額紙幣の肖像画や教科書でも「聖徳太子」として使用されていました。そのため、この画像が「聖徳太子」というイメージを人々に強く残しました。しかし、この絵と「聖徳太子」とを関連づける当時の史料がないこと、絵の画像の研究から、製作年代は早くとも8世紀(奈良時代)と考えられることなどから「伝聖徳太子像」として表記するようになりました。

 「聖徳太子」の研究は、聖徳太子自体が、信仰の対象であり、史料の記述も信仰と実際の事績が混在しているため、歴史的な「謎」につつまれた部分が多いのも事実です。しかし上記のような研究成果を反映し、高等学校の教科書だけでなく、一般の学術書にも「厩戸王」と記載する傾向となっています。

参考文献:大山誠一 『〈聖徳太子〉の誕生』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館 1999年

     熊谷公男 『大王から天皇へ』(日本の歴史 第03巻)講談社 2001年