• 用語

教科書に『慶安の触書』が載っていないのはなぜですか。

 『慶安の触書』は、1649(慶安2)年に幕府が発布した法令として、明治時代に編纂された『徳川禁令考』に収録され、長く教科書で紹介されてきました。しかし、近年これは幕府法令ではないという説が定説となりつつあります。実は、『慶安の触書』は、早くからその存在が疑問視されていました。その理由は、『御触書寛保集成』をはじめとする幕府が編纂した幕府法令集に収録されていないこと、『五人組帳前書』などの百姓支配関係の文書に引用や反映がないこと、なにより慶安当時に幕府の法令として出されたはずの『慶安の触書』の現物が、全く発見されていないことが存在否定説の大きな理由でした。しかし、『慶安の触書』が幕府法令でないのならば、一体何なのかが不明なため長く幕府法令として扱われていました。

 近年になり、地域の史料調査が進むと、『慶安の触書』の原型と見られる文章が発見されました。それは17世紀半ばに甲州から信州にかけて流布していた『百姓身持之事』という地域の百姓に対する説諭的な教諭書をもとに、1697(元禄10)年に甲府徳川藩が発令した『百姓身持之覚書』という甲府徳川藩法でした。そして、当時の甲府徳川藩主は徳川綱豊で、のちの6代将軍家宣でした。

 これを『慶安の触書』として広く流布させた人物は、幕府の教育機関として昌平坂学問所を整備した林述斎でした。彼は、19世紀前半に自分の出身である美濃国岩村藩の藩政改革に関与しており、その際『百姓身持之覚書』を『慶安の触書』として木版印刷を使って領内に流布させました。この『慶安の触書』は、林述斎に縁のあった東日本の幕領の領主が採用して広く流布することになりました。そして、明治になり幕府法令として『徳川禁令考』に収録され、全国に流布したということのようです。

 以上のような経緯から、これは地域的な触書で、幕府による農民支配の一般的な事例ではないとして、現在では高等学校の日本史教科書をはじめ、中学校の教科書でも掲載されない傾向にあります。

参考文献:山本英二『慶安の触書は出されたか』(日本史リブレット38)山川出版社  2002年