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一遍上人が描かれている福岡荘とは九州の福岡市のことですか。

 九州の福岡市を「福岡」と名付けたのは戦国大名の黒田長政です。福岡藩の藩祖の黒田長政は、関ヶ原の戦いの戦功により豊前国中津から大幅加増されて筑前国に転封となりました。黒田氏は、黒田長政の曾祖父にあたる黒田重隆の代まで備前国邑久郡福岡村(現在の岡山県瀬戸内市長船町)にいましたが、1601年に長政が筑前国那珂郡警固村福崎(現在の福岡市中央区)に城を築いた際、ゆかりの地である備前の地名にちなんで、この地を「福岡」と名付けました。教科書などに掲載されている『一遍聖絵』が描かれた鎌倉時代には、現在の福岡市に「福岡」の地名はまだなく、有名な福岡荘の絵は備前国の福岡について描かれたものになります。

 現在の福岡市は、江戸時代には、那珂川を境にして西側が「福岡」、東側が「博多」とよばれていましたが、「福岡」は武士のまち・行政都市として、「博多」は町人のまち・商業都市として機能分化し、「双子都市」として発展しました。1889(明治22)年に福岡市が誕生しますが、こうした歴史を踏まえて、このとき市名をどうするかで「福岡派」と「博多派」が激しく対立します。翌年、市議会に「市名変更」の議題が提出されましたが、採決では同数となります。最終的に旧福岡藩の武士出身の議長が投票した結果、わずか1票差で「福岡市」となりました。