会社案内   教科書購入のご案内   お問い合わせ   著作物利用申請について   サイトマップ   採用情報   English
統計・ニュース
日本
世界
統計地図
歴史・公民分野
都道府県のすがた
世界各国のすがた
 
Home > 統計・ニュース > 社会科ニュース 歴史ニュース
歴史ニュース
                                       過去の歴史ニュース(〜2006年12月)

*ナポレオン毒殺説,否定
ナポレオンは遺髪から高濃度のヒ素が検出されたことから,晩年にヒ素を盛られ毒殺されたとされているが,今回イタリアの国立核物理学研究所が,少年時代から晩年までの毛髪の標本を集め,小型原子炉を使ってヒ素の含有量を測定したところ,少年時代からすでに高かったことが明らかになった。「200年前の人々は現代人に比べ,毛髪のヒ素含有量が100倍高かった」としてナポレオン毒殺説を否定している。(2008年2月)

*10万年前の頭蓋骨発見
河南省許昌市で,8万〜10万年前の人類の頭蓋骨が発見された。アフリカ以外で同時期の人類の化石が見つかった例はほとんどなく,「北京原人以来,最大の発見」と注目を集めている。この化石は,旧人に取って代わった新人がアフリカから各大陸に広がった後の時代の化石とみられ,北京原人やアフリカで進化した新人との関係解明を通して,現代の東アジアに住む人類の起源解明の糸口になるのではと期待されている。(2008年1月)

*バーミヤンから世界最古の油絵
アフガニスタン,バーミヤン遺跡の石窟には5〜10世紀にわたる仏教絵画が極彩色で描かれている。その中の7世紀後半の壁画が世界最古の油絵であることが,東京文化財研究所の科学分析によって明らかになった。また他にも,10世紀までの壁画数点が油絵であることがわかった。シルクロードの拠点で油絵の存在が確認されたことにより,法隆寺の玉虫厨子や正倉院宝物などの,油絵技法を使用した可能性のある作品との関係が注目される。(2008年1月)

*世界最古の集団墓地発見
シリア北西部にある新石器時代の集落遺跡「テル・エル・ケルク」から,約8500年前の集団墓地が発見された。各国で見つかった集団墓地の中では最古級に位置付けられる。埋葬法は性別や年齢に関係なくほぼ同様で,個別の穴に体を曲げた状態で40体以上が埋められていた。専門家は「性別や地位による格差が小さな社会だったとみられる」と見解を示している。(2007年12月)

*名護屋城本丸御殿の全容を確認
 豊臣秀吉が朝鮮出兵のために築いた名護屋城跡の発掘調査で,「本丸御殿」とみられる12棟の大規模な建物群の遺構が確認され,全容がほぼ明らかになった。建物群の広さは南北約65m,東西約70mで,大阪城に匹敵する規模と格式を備えていたと思われる。また,遺構と現存する大阪城本丸御殿には類似点が多いことから,御殿の南東側が御対面所など公的な施設,北西側が書院などの秀吉が日常生活を送った私的な建物であったと推測される。桃山時代の御殿の全体像が解明されたのは全国初。(2007年12月)

*末盧国の王墓を特定
 佐賀県唐津市の桜馬場遺跡は第二次世界大戦時に防空壕を掘る際に発見され,豪華な副葬品をもとに『魏志倭人伝』に記述される「末盧国」ではないかと想定されていた。その後,場所がわからなくなっていたが,今回,王の甕棺を埋めた掘り込みや,以前出土した後漢の鏡「方格規矩四神鏡」の欠けた部分と合致する銅片が発見され,王墓特定へと発展した。魏志倭人伝に記されている日本のクニは約30国で,位置がわかっているものは伊都国(福岡県前原市),奴国(同県春日市)など5か所,考古学的に王墓が特定されているのはその内2遺跡しか無く,今回が3例目となる。(2007年11・12月)

中国王朝,混乱期には悪貨出現
 銅銭の元素解析により,中国では大規模な反乱や王朝の滅亡期になると粗悪な貨幣が出回ったことが判明した。紀元前三世紀に秦の始皇帝がつくらせた半両銭から19世紀後半の光緒通宝までの貨幣を調べると,安史の乱の頃や南宋の末期,明朝末期から清朝初期などの移行期につくったと考えられる銅銭において,他の時代より鉄の割合が高かった。(2007年11月)

*石見銀山,世界遺産に登録
2007年6月に「石見銀山遺跡とその文化的背景」が世界文化遺産に登録された。国内初の産業遺産となる。いったんは登録延期が勧告されたが,審議において同銀山が環境保全に配慮して採掘されてきた点が高く評価され,逆転登録となった。石見銀山では,16〜17世紀の採掘期に,銀採掘跡地で計画的植林が進められていたという。環境保全と開発を両立させた世界遺産として,地球温暖化問題を見つめる世界的なきっかけになるのではないか。(2007年6・7月)

*「新潟産ヒスイ」,九州産の石だった
元来「新潟産のヒスイでできている」とされてきた九州の縄文時代後期の首飾りを,蛍光X線分析装置で分析したところ,ほとんどが地元産の石だったことが判明した。縄文後〜晩期における本州の糸魚川から九州へのヒスイ交易という歴史像を見直さなければならなくなる。加えて,九州産の石製品が中国地方から北陸地方にまで輸出されていたこともわかってきた。このような再発見は,近年の考古学への科学分析技術の導入によるものが大きい。(2007年6月)

*田村麻呂の墓,特定へ
平安初期の武人で,蝦夷征討で知られる坂上田村麻呂の墓は,京都市山科区にある西野山古墓である可能性が非常に高いことがわかった。京都大学の吉川真司准教授は,田村麻呂が建立した清水寺の縁起にある「田村麻呂の墓所として山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の山や田を与える」との記述を,古代の土地区画法・条里制の地図にあてはめる作業から,そこに西野山古墓が含まれることを導き出した。大正時代にこの古墓から出土した副葬品(大刀や鏡)は8〜9世紀のものであり,正倉院宝物に匹敵するほどの価値があるといわれ、国宝に指定されている。(2007年6月)

*運慶,新発見作品で東国武士との接点が明らかに
鎌倉時代の仏師運慶は,代表作に東大寺南大門の仁王像があるように畿内を本拠地として活躍したが,関東の源氏勢力とも関係があったことが造仏歴から見て取れる。2007年春,横浜市称名寺光明院蔵の大威徳明王坐像胎内から,制作にあたって源頼家や実朝の養育係を務め,政権の近くにいた「源氏大弍殿」が運慶に注文したと書かれた文書が発見された。このような東国武士とのかかわりが,運慶が創出した鎌倉新様式のヒントになった可能性が指摘されている。(2007年5月)

*鎌倉は城塞都市だったのか?
源頼朝が幕府を開く際に鎌倉の地を選んだ理由は,三方を山に囲まれ正面は海という城塞に適した自然の立地条件があったというのが定説であるが,江戸東京博物館の斎藤慎一氏は近著『中世武士の城』(吉川弘文館)で異論を展開している。鎌倉が城塞都市とされてきたのは,九条兼実の日記『玉葉』に「鎌倉城」とあることによるが,鎌倉〜南北朝の遺跡や文献を分析すると「城」という言葉に戦争の含意はなく,「武家の本拠」を意味するに過ぎないことを指摘する。さらに,全国の武家の本拠には典型的な立地プランがあり,頼朝の時代の鎌倉も同様に設計されていたことを述べ,鎌倉の姿の見直しを提唱している。(2007年1月)

*弥生時代はいつから?―遼寧式銅剣から考える
弥生時代は従来,紀元前3世紀から始まるとされてきたが,国立歴史民俗博物館は放射性炭素C14年代測定に基づき,これまでより古い紀元前10世紀ごろにはじまるとの説を提唱してきている。この自然科学上の分析と考古学の編年との整合をはかる動きが活発であるが,中でも「遼寧式銅剣」と呼ばれる青銅器が重視されている。中国東北部で生まれ朝鮮に伝わり,日本でも弥生前期の福岡県今川遺跡で出土している。中国では年代の特定できる遺物と一緒に出土するため,その年代に土器編年を勘案していくと日本の弥生時代の年代が判明する。これによれば前10世紀までは遡れないことから,歴博説に異論も出されている。(2007年1月)

*ジャンヌ・ダルクの遺骨「偽物」
フランスの研究チームによると,1867年パリの薬局で発見されたジャンヌ・ダルクのものとされていた遺骨は,紀元前3-6世紀のものであることが判明した。腐敗によって生じるとされるバニラ臭があることや,古代エジプトで防腐剤として使用された松脂が検出されたことから,エジプトのミイラではないかと推測されている。(2007年4月)

*昭和天皇,戦時下の肉声
故小倉庫次・元東京都立大学法経学部長が戦前,昭和天皇に侍従として仕えていた時期の日記によると,昭和天皇は日独伊三国軍事同盟に不快感を示し,日中戦争については早く止めるべきだ,やりたくなかったと太平洋戦争開戦前後に述べるなど,戦争に対して不満を感じていたことが明らかとなった。(2007年3月)

  *吉田首相暗殺計画
アメリカ合衆国中央情報局(CIA)の文書によると,1952年,旧日本軍幹部らが日本の再軍備をめざし,当時の首相吉田茂を暗殺して鳩山一郎を首相に就任させようとするクーデタを計画していたことが明らかになった。これは同首相が米軍の保護に依存して,日本の再軍備を追究しないことに強く不満をもっていたことによる。同じく再軍備化を望んでいたが,時期尚早と考えた元陸軍参謀辻正信に説得され,クーデタは中止された。(2007年2月)

*縄文時代の大布出土
北海道恵庭市の柏木川4遺跡にある縄文時代後期(3500年〜3000年前)の河川跡から,縦120cm,横60cmの布が出土した。数十本の植物繊維をよった,太さ3-5mmの糸を,縦横直角に交差させる縄文時代独特の技法で編まれている。少なくとも3種類の模様が確認された。衣類や敷物に使用されたと見られる。(2007年2月)

*偕老同穴3800年
エジプト カイロ近郊のダハシュール北遺跡にある墓から,約3800年前の彩色木棺が2つ発見され,夫婦のものである可能性が高いという。古代エジプトでは,夫婦が1つの墓に埋葬されたと考えられているが,実際に1つの墓から2つの棺が発見されたのは初めて。(2007年2月)

*弥生土器 発見地に新説
弥生土器の命名の由来となった「弥生1号土器」は,1884年,現在の文京区弥生にあったとみられる向ヶ岡弥生町貝塚で発見された。その貝塚は開発のため,現在では所在がわからず,東大工学部の一角が発見地とされてはいるが,諸説あってはっきりしない。東大埋蔵文化財調査室助手 原祐一さんは明治期の公文書や写真から当時の土地所有状況や地形を詳細に検討し,現在の東大農学部 生命科学総合研究棟付近が最も有力との結論に達した。(2007年1月)

*将門の乱の理由はバブル崩壊
埼玉県埋蔵文化調査事業団の田中広明主査によると,9世紀の関東地方は都から投入された大量の資金によって,生産性の低い場所でも次々に荘園が造営された。平将門の祖父高望王も時流に乗って都から下って土着し,南関東に勢力を広げた。しかし開発バブルは崩壊,新開拓地は維持されずに荒廃し,乱の中心となった筑波地方では,10世紀後半までに集落が半減した。一方,朝廷は国司を派遣して統制を強めようとしたため,減少した農地を在地勢力と国司が奪い合うかたちとなった。将門の乱は,在地勢力の既得権益を確保するためおこされた,と考えられている。(2007年1月)

*2千年前に開頭手術か
中国 新疆ウイグル自治区のトゥルファン近郊で発掘された2000〜3000年前の墓から,複数の,穴が空いた人の頭骨が見つかった。穴の周囲には組織再生の跡が見られるなど,開頭手術が行われていた可能性が高いとされる。負傷した人に施術されたものと考えられている。(2007年1月)

*「ガオ帝国」宮殿か
西アフリカのマリで9〜10世紀ごろのものとみられる大規模な石造りの建物跡が見つかった。当時の文献には記録があるものの,詳細が不明だったガオ帝国の王宮であった可能性があるという。王宮跡とすれば,西アフリカでは最古となる。(2007年1月)

*「鉄道嫌いの明治人」は伝説?
「明治の人々は,鉄道が通ると宿場がさびれる,機関車の煙で桑が枯れるなどといって,敷設に反対したり,駅を町から遠ざけたりした」といわれることがある。青木栄一・東京学芸大学名誉教授(地理学)によれば,この多くは伝説であって実際には多くの宿場町で誘致活動が行われたし,路線の選択には当時の技術力から線路の勾配と曲線,駅舎の立地には土地買収の難易といった面から決められていたという。(2007年1月)